午後、近所で「大好きな北杜で最期までー
どうなってるの?北杜の医療と介護」というタイトルの会があって出かけた。
上野千鶴子さんと飛矢崎雅也さんの対談。
上野さんはなにしおう戦う社会学者で北杜市に仕事場を持っている。
「スカートの下の劇場」とか「おひとりさまの老後」とか話題作もいっぱい。
飛矢崎さんは政治学者で北杜市に住んでいる。
会場には200人を越える聞き手が集まって、立ち見も出る盛況。
上野さんはすばらしかった。
もう、器が違う。
海千山千、まず学者としてプロ。
まず、きちんと北杜市の人口や高齢化率や就業率を数字としてだし、
全国平均と比較し、その数字がなにを意味するか分析を加える。
決してむずかしいことばは使わない。
学者はおうおうにして、むずかしいことをむずかしいことばを使っていうが
上野さんはむずかしいことをふつうのことばで言ってくれる。
皮肉をきかすときは関西弁でやわらかくする。
同時に講演会の講師としてもプロ。
自分が知っているということと
それをじょうずに語れるということはまったく違う話だ。
上野さんはときどき、会場にも発言をうながし、対談相手に花をもたせるように
話題を振ったり、会場の質問にすばやく明るくコメントし、ときに修正し、
笑顔で交通整理していく。
とにかく「私が出た以上、この場のすべての人を楽しく
話題にひきこむ。それが当然」という気構えがプロ。
質問者の話のあとは「では、そのためにはどうすればいい?」と
常に話を具体的に前に押し進めようとする。
実際、そうでないとただのグチか
「私はこんなにがんばっているのに」という
自己主張で終ってしまうケースも多いわけで、
とにかく知恵をだすことをうながす。
会の終わりの方に会場から「今までの話はある程度お金のある人の話です。
実態は」と近辺の老人たちを尋ねたという女性から、怒り気味の意見が出た。
1人暮らしで買い物もままならない老人たちの実情についての話だ。
個別の話を始めたら、千人に千人の事情があるから
話がおさまらなくなってしまうのだが、
たいていの人は、こういう具体的な、しかも気の毒な話をされると、みんなシュンとなる。
とくに「自由に。みんな好きにやればいい」とかビッグワードは
使うけれど、なにもやっていない人は「現場の声」に弱く、絶句する。
ぼくもそうだ。
だが上野さんはへこまない。
「それは違うんです。それは年金制度の失敗で
介護制度とごっちゃにしてはいけません」と、年金制度のなりたちについて、
またまた、わかりやすく説明して、今日の会のテーマから脱線しない。
たくさん知っていて、その知っていることを即座に話の中にいかしていく。
ほんとうにあざやかなものだ。
上野さんは今、住民票をとって生活の拠点を北杜市に移そうかどうか、
考えているとのこと。
ぜひ、来ていただきたいと思った。
今日の話にも何度も出てきたが、北杜市には学者でも芸術家でも
それなりに実績のある人が大勢移住してきている。
で、みな、それなりにおもしろいことをやっているのだが、
互いに知らない。
お互いに教えたり、教わったりしながら暮らして行ったら
楽しい町になると思うのだが、どうすればいいか。
無数の小さなイベントを大きなうねりにしていくには
どうすればいいか。
水と緑と太陽ときれいな自然はある。
その上に人の暮らしが楽しい町を、
作っていくにはどうすればいいのか。
今、この町に欠けているのは、大きな絵を描ける軍師だと思う。
上野さんが来てくれれば、この町は日本最強の軍師を得ることができる。
対談相手の飛矢崎さんは全体主義やハンナ・アーレントについて
研究して、大学で教えているのだそうな。
今日はそういう話ではなかったが、いつかいろいろ
おうかがいしたいと思った。
夕方、昨日から来ている朋子と紅を車に乗せて東京に向かう。