ワールドカップ

4年に一度のお祭り、サッカーのワールドカップが終わった。
この間、日本チームの評価はころころ変わった。
とくにポーランド戦の最後のろこつな時間稼ぎのところ。
あれは「いい」も「わるい」も見ていた人全員が
なにかひとこと言いたくなったと思う。
「ひきわけねらい」というならまだしも「負けでいい」という選択だ。

ようは「サッカー」という試合と「ワールドカップを勝ち上がる」という試合の
二重構造になっていて、そのどちらを優先するかということだ。
どちらを優先するかで、戦い方が違ってくる。

監督はワールドカップで上に行くことを選んだ。
ポーランド戦は目の前の試合のひとつにすぎないとして捨てた。
だから監督の指示したあの作戦はありだ、という人がいるのはわかる。
その監督の指示を忠実に守った選手もいいのだろう。

でも、ぼくはだめだった。
頭では理解できるが、どうしても美意識がじゃまする。
卑怯ということばが頭をよぎる。
だから、ドーハの悲劇のように勝てないんだとしたら、
ぼくは監督に向いていないんだろうなあ。
だって、最後に「セネガルはコロンビアに勝てない」と読むのがドライすぎる。
他力本願だと思う。
「天は自ら助けるものを助ける」ということばもあるのに。

ただ、プロレス頭で考えると、どんなチャンピオンになりたいかという
イメージも持っていいのかと思う。
チャンピオンには子どもたちのあこがれる正義の味方のチャンピオンと
勝ちゃいいんだよ、反則だってありだよ、イエローカードだって一回ならいいんだよ、
というダーティーチャンピオンがいるのだ。
でも、日本に「ダーティーチャンピオンでいいんだ。そっちをめざせ」という
腹のすわった戦いができるのだろうか?

だから、ベルギー戦は勝ってほしかった。
ポーランド戦では隠したほんとの力を見せるぜ、ということで。
で、さわやかに勝って、世界を納得させてほしかった。
 で、ほんとにいい試合をした。惜しかった。
でも、これもプロレス頭で考えると、いい試合を提供できたなら
両方とも強かったのだからそれでいいとも考えられる。
 つまり、お客がコブラツイストという技が見たいんだとしたら、
どちらかがかける側で、どちらかがかけられる側にならないといけない。
 そのかけられる側になったと考えればいいのだ。
とは思うけれど、勝てば次はブラジル戦だったから、やっぱり惜しかったなあ。